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40番 観自在寺(かんじざいじ)
愛媛県宇和郡愛南町御荘平城2253-1
「菩提の道場」。愛媛、最初の霊場で「四国霊場の裏関所」とも呼ばれる。
平城天皇の勅命を受けてこの地を訪れた弘法大師が、1本の霊木から本尊の薬師如来と脇侍の阿弥陀如来、十一面観音菩薩の三尊像を彫造して安置し、開基したとされている。
41番 龍光寺(りゅうこうじ)
愛媛県宇和島市三間町戸雁173
大同2年、稲束を背負った白髪の老人が五穀大明神の化身であろうと悟った大師が、その明神を勧請して稲荷明神像を彫造、堂宇を建てて安置した。 本堂の稲荷神社は稲の神様で、大祭時(毎年3月の第1日曜日)は五穀豊穣や商売繁盛を祈願する人たちで賑わう。
42番 仏木寺(ぶつもくじ)
愛媛県宇和島市三間町則1683
大同2年、弘法大師が牛をひいていた老人に出会い誘われるままその牛にのり、宝珠を見つけたこの地に仏木寺を開いたことから、 寺は牛馬家畜の守り仏としても信仰を集めている。ペットの供養に訪れる人も多い。
43番 明石寺(めいせきじ)
愛媛県西予市宇和町明石201
6世紀前半、欽明天皇の勅願により、この地に七堂伽藍を建立し開創しとされている。
客殿の裏には、身の丈2m余、長い袂着物姿で、左手に水瓶をもつ慈悲深いお顔の「しあわせ観音像」がある。
44番 大宝寺(だいほうじ)
愛媛県上浮穴郡久万高原町菅生1173
43番明石寺からの道のりは約80km。難所がつづく、「遍路ころがし」の霊場。
大宝元年、安芸からきた明神右京隼人という兄弟の狩人が十一面観音像を発見し、草庵を結んでこの尊像を祀った。のち文武天皇の勅願により、元号にちなんで「大宝寺」と号し、開創された。
45番 岩屋寺(いわやじ)
愛媛県上浮穴郡久万高原町七鳥1468
弘仁6年、弘法大師がこの霊地を訪ねたとされている。
大師は木造と石造の不動明王像を刻み、木像を本尊として本堂に安置、また、石像を奥の院の秘仏として岩窟に祀り、山全体を本尊にしたという。
46番 浄瑠璃寺(じょうるりじ)
愛媛県松山市浄瑠璃町282
和銅元年に行基菩薩が布教のために、この地を訪れ、仏法を修行する適地として伽藍を建立した。
大同2年、唐から帰朝した弘法大師が荒廃していた伽藍を修復し、四国霊場の一寺としたとされている。
47番 八坂寺(やさかじ)
愛媛県松山市浄瑠璃町八坂773
修験道の祖・役行者が開基したと伝えられており、かつては修験道の道場として栄えていた。弘仁6年に、弘法大師がこの寺で修法し、荒廃した寺を再興して霊場と定めたとされている。
本尊の阿弥陀如来は寄木造の座像で、県の重要文化財である。
48番 西林寺(さいりんじ)
愛媛県松山市高井町1007
寺の西南300mには、弘法大師が杖で突くとわき出たという泉「杖の渕」が今も残っており、昭和60年の「全国の名水百選」にも選ばれている。
また、閻魔堂の前にある「孝行竹」は、家庭円満の象徴として信仰されている。
49番 浄土寺(じょうどじ)
愛媛県松山市鷹子町1198
天平勝宝年間、恵明上人によって行基菩薩(668〜749)が彫造した釈迦如来像を本尊として祀り開基。
本堂は、内部にある厨子とともに国の重要文化財。また、本堂に安置された「空也上人立像」も国の重要文化財に指定されている。
50番 繁多寺(はんたじ)
愛媛県松山市畑寺町32
天平勝宝年間に孝謙天皇(749〜758)の勅願により、行基菩薩が薬師如来像を彫造し、それを本尊として開基。
本堂左手の聖天堂に安置されている、歓喜天像は厄除けや夫婦和合、商売繁盛などのご利益があるという。
51番 石手寺(いしてじ)
愛媛県松山市石手2-9-21
神亀5年(728)、聖武天皇に勅命を受けた越智玉澄が鎮護国家の道場として伽藍を建立し、法相宗の安養寺と名付け開創。鎌倉時代に造られた、高さ約7mの仁王門は国宝に指定されている。
52番 太山寺(たいさんじ)
愛媛県松山市太山寺町1730
嘉元3年(1305)に建てられた国宝の本堂は、本尊のほか6体の十一面観音像を祀るが、7体とも国の重要文化財である。 境内にある祀られている聖徳太子の像は、学業成就にご利益があるといわれており、多くの受験生が祈願に訪れる。
53番 円明寺(えんみょうじ)
愛媛県松山市和気町1-182
大師堂左の塀ぎわにあるキリシタン石塔は高さ40cm程の灯籠で、キリシタン禁制の時代に造られたもので、キリシタンが密かにお参りしていたとのこと。
54番 延命寺(えんめいじ)
愛媛県今治市阿方甲636
もとは「円明寺」であったが、同じ寺名の53番「円明寺」との間違いが多く、明治になって「延命寺」に改名された。 鐘楼横の墓は越智孫兵衛のもので、元禄時代、縣村庄屋の庄屋であった越智孫兵衛は農民の窮乏を救い、享保年間の大飢饉でも餓死者を出さなかったと伝えられる。
55番 南光坊(なんこうぼう)
愛媛県今治市別宮町3-1
四国霊場のうち、唯一「坊」がつく寺院である。正式名は光明寺金剛院南光坊。
太平洋戦争最末期の昭和20年、空襲により大師堂と金比羅堂を残し焼失したが、本堂は昭和56年、薬師堂は平成3年に、山門は同10年に再建された。
56番 泰山寺(たいさんじ)
愛媛県今治市小泉1-9-18
弘仁6年(815)、蒼社川は梅雨で氾濫し、多くの命が奪われていた。弘法大師は、堤防を築き法要を行い「土砂加持(どしゃかじ)」の秘法を行った。 法要の満願の日に地蔵菩薩が現れて、大師はその像を刻んで本尊とし一寺を建立し、本尊として安置したのがはじまりといわれている。
57番 栄福寺(えいふくじ)
愛媛県今治市玉川町八幡甲200
嵯峨天皇(在位809〜23)の勅願によって、弘法大師が開基。
海難事故が絶えなかった瀬戸内海沿岸近海で、弘法大師が海神供養を修したことから、海陸安全や福寿増長の祈願寺として信仰されている。
58番 仙遊寺(せんゆうじ)
愛媛県今治市玉川町別所甲483
天智天皇(在位668〜71)の勅願によって、伊予の国主・越智守興公が開基。 本尊の千手観音菩薩像は、天皇の念持仏で、竜女が一刀三礼しながら彫って安置したともいわれる。
59番 国分寺(こくぶんじ)
愛媛県今治市国分4-1-33
天平13年(741)、聖武天皇(在位724〜49)の勅願によって、行基菩薩が本尊の薬師如来像を彫造し、開創。 書院には、平安から室町時代に制作された資料価値の高い文書や絵画が収蔵されている。
60番 横峰寺(よこみねじ)
愛媛県西条市小松町石鎚甲2253
白雉2年(651)、役行者が石鎚山の星ヶ森で修行中、山頂付近で蔵王権現の姿を見て、その姿を石楠花の木に彫り、小堂に安置し開創したとされる。
61番 香園寺(こうおんじ)
愛媛県西条市小松町南川甲19
用明天皇(在位585〜87)の病気平癒を祈願し、聖徳太子が創建したと伝えられている。
境内には、本堂と大師堂を兼ねた、褐色の鉄筋コンクリート造りの大聖堂がある。
62番 宝寿寺(ほうじゅじ)
愛媛県西条市小松町新屋敷甲428
天平年間、聖武天皇(在位724〜49)が諸国に一の宮を造営した際、この地に伊予の一の宮神社が建立され、道慈律師が勅命をうけ法楽所としての別当寺を創建したのがはじめと伝えられる。
国司越智公の夫人が安産のため、弘法大師が境内の井戸水を加持して与えると、無事に出産したということから、 「安産の観音」として信仰を集めている。
63番 吉祥寺(きちじょうじ)
愛媛県西条市氷見乙1048
弘仁年間、弘法大師がこの地方を巡教した際、1本の光を放つ檜を見つけ、この霊木で本尊とする毘沙聞天像を彫造した。
さらに脇侍として善膩師童子像と吉祥天像を彫って安置し、貧苦からの救済を祈願して堂宇を建立したのが開創と伝えられている。
64番 前神寺(まえがみじ)
愛媛県西条市洲之内甲1426
役行者小角が石鎚山で修行中、阿弥陀如来と釈迦如来が衆生の苦しみを救済するために石蔵王権現となって現れたのを感得し、その尊像を彫って安置したのが開創とされている。
65番 三角寺(さんかくじ)
愛媛県四国中央市金田町三角寺甲75
伊予国最後の札所の三角寺。行基が開基したとされ、本尊は十一面観世音。 子安観音として厄除観音としても信仰されている。
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伊予国最後の札所
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